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「観光アシスタントひろしま」は広島を心から愛している人たちが自主的に運営しているボランィア団体です。

電話でのお問い合わせはTEL.090-1688-4932

〒730-0036 広島県広島市中区袋町6-36(BOX45)

平和記念公園のご案内


平和記念公園で世界恒久平和を祈る!

平和記念公園は、原爆死没者の慰霊と世界恒久平和を祈念して開設された都市公園です。公園内には死没者の慰霊碑、未だ身元も分からない遺骨の供養塔、被爆の実相と原子爆弾が如何に非人道的な殺戮兵器であることの証しを伝える資料館、原爆の惨状を世に問いかける被爆建物の原爆ドーム。このほか、平和の願いを込めて設置された数々の碑とモニュメントがあります。平和記念公園とその周辺は、「被爆の惨禍を後世に伝え、平和を学び考え語り合う場、平和を願う世界の市民が集い憩う場、そして行動する場」であるとされております。毎年、広島記念資料館には内外から数百万人の方が訪れ、「広島の心」を知り持ち帰ります。この公園の設計は、丹下健三ほか3名の共同作品で、設計競技による145点の中から選ばれました。「日本の歴史公園100選」と「日本の都市公園100選」に選ばれております。


景園マップマップ (出典:縮景園ガイド)


平和記念公園の役割


原爆で亡くなった死没者を慰霊し鎮魂する「原爆死没者慰霊
核兵器廃絶と世界恒久平和を記念する「非核と恒久平和祈念
被爆の惨禍の実相を後世に伝える「被爆の実相を後世に伝承
平和を学び、考え、伝える、語り合う「平和の輪をに拡げる

平和記念公園は、被爆後のごく早い時期から、爆心地である中島地区に“原爆死没者を慰霊”し、“世界恒久平和を祈念”するための公園と記念施設を整備しようとする構想が数多く提案されておりました。平和記念公園は、「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設すること」を目的とする「広島平和記念都市建設法」に基づく記念施設として、平和記念資料館などとともに整備されました。現在、原爆死没者の慰霊と世界平和を祈念するための「聖地」、国際平和文化都市の象徴としての「観光地」、市民の憩いの場である「都市公園」といった多様な役割を果たしております。平和記念資料館の施設内の展示は、「内外から訪れる人々に、被爆による惨状の実相を目にし、何故非核が必要なのかを問い、世界中に平和の輪を拡げる」場として、その役割を担っております。

原爆慰霊碑を訪れる

年中、国以外から多くの観光客が訪れ、原子爆弾による死没者に哀悼を捧げ、碑に刻まれた「ひろしまの心」を知る

全国から平和学習に

毎年、全国の小・中・高校生の旅行生が訪れ、原爆の実相を目にし、命の大切さを学び、平和への思いを繋げます

市民の憩いの場所

年中24時間開放されてされており、毎朝のラジオ体操に、散歩に、春には大勢の花見客が、川辺で一人物思いに耽る


平和記念公園の草木


原爆が投下された後、「広島には今後75年、草木も生えないだろう」と言われたほど、その惨状と放射線の影響はすさまじいものでした。しかし、広島市内には原爆に遭ってなお、たくましく生き続ける被爆樹木があります。残念ながら平和記念公園がある中島町は、爆心地から近すぎたため、生き残った樹木はありませんでしたが、爆心地から少し離れたアオギリと、インドハマユウの生き残った被爆樹木が平和記念公園内に移植されました。いち早く咲いたキョウチクトウ。青々と茂る枝葉や花、その姿から困難に遭ってもなお力強く生き続ける勇気をたくさんの人に与えました。平和記念公園の緑豊かな樹木は、原爆による被害からの復興の象徴の一つですが、これらの樹木には国内外から寄付されたものが多数あります。平和記念公園の整備にあたって、当時の広島市長が全国の市長に樹木の寄付を呼びかけたことがきっかけとなり、その後、国内外から多くの樹木(供木)が寄せられた経緯があります。こうした寄付樹木には、寄付をしていただいた方々や、これを育ててきた先人の方々の強い思いや願いが込められており、その後の多くの方々により復興と平和の象徴として大切に守って頂いております。

アオギリ

バラ

ツバキ






春はサクラ
広島を代表するお花見のスポットの一つです。公園内には約300本のソメイヨシノの木があり、園内各所で楽しむことができます。元安川の川辺のは桜並木が広がり、見ごろになると多くの花見客で賑わいます。毎年3月末頃おおよそ3分咲き、4月に入ると数日で満開となります。中旬になると元安川の川面にたくさんの桜の花びらがしずかに流れて行きます。このほか、世界各国から送られたバラ、平和の鐘のハスも開花し、公園包むように内外に植えられたたくさんのツツジが咲き続けます。また、チューリップなどの季節の花も植えられ、厳粛な平和公園の中でも春の装いを美しさを楽しむことができます。

ソメイヨシノ

ツツジ

チューリップ


夏はキョウチクトウ

平和記念公園の西側を流れる本川(ほんかわ)両岸を、夾竹桃(キョウチクトウ)が紅や白色に彩っています。8月6日の平和記念日(原爆の日)の頃に、花は盛りを迎えます。原爆が投下された後、「75年間は草木も生えない」と言われた焦土に、夾竹桃はいち早く咲きました。夾竹桃は、希望と勇気を与えてくれた花ですが、悲しい記憶を呼び起こす花でもあります。辛く、苦しい記憶ですが、同じ過ちを二度と繰り返さないために、心に刻みつけなければならない記憶です。公園の上空600メートルで原子爆弾が炸裂した、あの日は焼けつくような暑い日だったといいます。広島市民の投票で「広島市の花」に選ばれています。毎年欠かさず花をつける姿は、今でも被爆者に悲しい記憶と同時に、困難に遭ってもなお力強く生き続ける勇気を与ております。


キョウチクトウ

サルスベリ

ハス


原爆で失われた中島町地区


平和記念公園は失われた「中島地区」

国内外から年中多くの観光客が訪れます、平和記念公園内の碑巡りする足元の地面の埋められた70センチの下には、今も原爆投下により喪失した当時の中島地区の地面があります。被爆前、その地面には戦時下建物疎開等で最盛期から簡素になった街がありました。それでもいつもと変わらぬ庶民の素朴な暮らしがありましたが、人類史上初の1個の原子爆弾により中島地区のそのものが一瞬のうちに失われました。被爆時、多くの人々が爆風・熱線・放射線により苦しみ亡くなりました。その後も被爆者は原爆後遺症に長く苦しみました。公園には70基近い関連慰霊碑やモニュメントがあります。それぞれの碑には目に見える碑文では語りつくせない多くの被爆者のエピソードと思いがあります。多くの来園者はそうした「被爆者の思い」を持ち帰ります。

平和記念公園

原爆の慰霊、原爆の実相、平和を記念するとともに、観光地として24時間開放されている都市型公園です

原爆資料館

被爆者の遺品や被爆の惨状を示す写真や資料を展示、被爆後のあゆみや、核時代の現状を紹介しています

嵐の中の母子像

右手に乳飲み子を抱え、左手で用事を背負うとしながら、前かがみ姿勢で、嵐の中を生き抜こうとする母



原爆が投下される前の「中島地区」

「平和記念公園」は、太田川が分岐した元安川と本川の間の三角州にあって、上の地域はかつて店舗や住居がひしめく「中島地区」でした。「広島原爆戦災誌」によると、中島地区には被爆前、推計で1330世帯4370人が住んでいたそうです。最北端の中島本町~中島新町まで、旧7町内会がありました。中島本町は、幕末から大正にかけて市内を代表する繁華街として賑わいました。東西のメインの中島本通りには鉄筋3階建ての大正呉服店が営業をしており、そこから南北に走る天神町筋、材木町筋にも店が軒を連ね、映画館、カフェなどがあり、寺院は子供の遊び場にもなりました。元安川側には旅館が連ね、夏には川で水遊び場でもあり、元安川には産業奨励館への荷物の船便の往来がありました。


被爆前の中島地区

被爆前の平和記念公園は、中島地区と呼ばれ、幕末から明治大正にかけて広島市の中心的繁華街としてにぎわった歴史のある街でした

元安川は物流の要所

産業奨励館への貨物の出し入れで、元安川は舟運での物流輸の要所でした。また、夏には子供たちの水遊びでまた、にぎわっていました

市内電車は市民の足

市内電車は市民の足



原爆の投下
1945年8月6日月曜日、快晴、いつものように広島市民は一日の営みを始めました。人々は市内電車で、自転車で、徒歩で、それぞれの職場へ、学校へ。職場では一日の仕事の始まりを。家庭では家事仕事を。早朝から連日のように続いている警戒警報の発令と解除が繰り返されたようです。そして、8時15分、エノラ・ゲイ(爆撃機)から原子爆弾が投下され、原爆は、巨大な火球(表面約30万度)となり。強烈な爆風(風圧約30トン/㎡)、強烈な熱線(地表3000度超)、放射線(放射線障害)を発し、一瞬にして全てを破壊し、中島地区の人々とともに消滅しました。炎上する広島市街、逃げ惑う被爆者、水を求めて川に飛び込み、助けを求めて、、、爆心地(島病院)から約半径2km以内はほぼ倒壊これが被爆者の長い苦難の始まりでした。

投下後の中島地区

1個の原子爆弾により一瞬のうちに中島地区は焦土化しました。

原爆ドームへ

産業奨励館は原爆ドームと化しました

被爆電車へ

乗客は死亡しへ爆電車と化しました



原爆死没者と被爆者
広島に投下された原子爆弾により死没した方やその後に死没した方は、344,306人(2024年8月6日付原爆死没者名簿より)対前年比5,079人増です。同年3月末日付で、「被爆者健康手帳」被爆と認定された方で保持者は、全国で106,825人(平均年齢約86歳)です。お名前が判明している「被爆者」の総数は合わせて、死没者を含めて約45万人とされております。さらに、今なお、お名前が分からず供養塔に納められているおおよそ7万柱を加えると、52万人、遺体が見つからず、遺体を無名で埋葬などを含めると、広島原爆被爆者総数は56万人とも推定されております。「被爆者」の原爆による爆風・熱線・高熱火災・放射線などの直接被害のほか、「生き残った被爆者」として、自分だけが助かった他の人を助けられなかったとの罪の意識、原爆報道統制により真実が伝わらず「原爆症がうつる」「重い火傷跡から奇異」など被爆者への偏見・差別(原爆のことを「ピカドン」とよばれ長く差別用語となった、就職・結婚に際しても広島出身者は「ピカを受けったか」を聞かれ差別された。このため被爆者は少なからず被爆の事実を隠して暮らさざるをえなくなり、精神的に長く苦しめられた。

死没者

死没者は

被爆者

被爆者は

被爆者

被爆者は



被爆「中島地区」から広島平和記念公園へ
被爆直後から、亡くなった方の荼毘・埋葬、被災者の治療、行方不明者の探索と大混乱になりました。原爆により焼け野原になって広島は、人は深く傷つき、食料、衣料、住宅など、ありとあらゆるものが不足しました。それでも廃墟の中で生き残った市民は生きるために、復興に取り組まざる得ないことになりました。被爆当時新型爆弾と言われ「広島は75年間、人畜の生存を許さぬ土地になった」とも言われましたが、被爆2日後に銀行が支払い業務を始め、被爆3日後には市内電車が一部が動き始めました。戦後政府に「戦災復興院」が設置され、広島市にも翌年1946年1月に復興局が開設されました。当初「旧中島町」は、「中島公園」という大公園として策定されましたが、当時の浜井市長が中島公園を平和公園として保存をすることを提案されました。1949年8月6日「広島平和記念都市建設法」が施行された機に、同年に平和記念施設の建設するための競技設計が行なわれ、「平和記念公園」は1954年4月1日に完成しました。但し、当初構想された中央公園(基町)、及び、旧産業奨励館(原爆ドーム)は、当時の様々な背景から計画が縮小され、除外されました。旧産業奨励館(原爆ドーム)は1953年に県から市に移管され、周囲に柵を張り巡らせていましたが、1966年にやっと永久保存になりました。

復興

復興1

復興

復興2

復興

復興3


原子爆弾とは


広島に投下された原子爆弾

原子爆弾は、投下から43秒後、地上約600mの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には最大直径280mの大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は達しました。原子爆弾の恐ろしさは、一瞬の大量破壊ばかりではありません。大量の放射線を浴びた被爆者は、高確率で白血病を発症した。当時白血病は治療法のない代表的な不治の病の一つであり、発症者の多くが命を落とした。特に若年の被爆者ほど発症時期が早かった。原爆の子の像のモデルとなった佐々木貞子は、2歳で被爆、10年後、12歳で白血病のために亡くなっている。原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります.。広島県の「原爆被害の実態」によりますと、原子爆弾による物理的破壊のエネルギー分布は、爆風50%、熱線35%、放射線15%といわれております。

原子爆弾

従来「壱之御茶屋

放射能被爆

円亭。榻は

8月6日原爆投下

茅葺で、古くは納涼


原子爆弾炸裂

ここから見える

被爆範囲

ここから見る秋の夕

原子爆弾の威力

洗心橋、観


平和記念公園の碑


平和記念公園

原爆死没者の慰霊と世界恒久平和を祈念して建設され、年間を通じて24時間開放されている都市公園です。マツダスタジアムの約2.5倍の広さがあり広島市が運営しております。設計は都市建築家の丹下健三氏他3名が応募作品から選ばれました。原爆慰霊碑は当初イサム・ノグチのデザインであったが、アメリカ人だからという反対で却下。丹下が彼のデザインを元に設計しました。平和公園は単なる慰霊施設ではなく平和を作り出す工場であるという理念で創られました。原爆ドームと慰霊碑、資料館は南北の線となっており平和の軸線とされております。この地域は被爆前中島地区の8町、6500人が住んでいたと言われ市内で一番の繁華街でした。平和記念公園とその周辺に70基近い関連慰霊碑やモニュメントがあります。それぞれの碑には目に見える碑文では語りつくせない多くの被爆者のドラマ・思いがあります。毎年8月6日に広島市主催の平和記念式典が行なわれます。

平和の軸線(北)

丹下健三が設計した平和公園の碑の配置は公園の南の平和大道りから資料館本館、慰霊碑、原爆ドームが一直線に並びます。慰霊碑のアーチ内の向こうに原爆ドームが見えます

平和の軸線(南)

原爆資料館は平和の軸線を塞がないように1階が吹き抜けになっています。このように建物を1階部分の柱だけで支えている建造物をピロティといいフランスのコルビジェの発想

平和の泉と平和の灯

被爆者が「水を水を」と叫び亡くなったことへの鎮魂の水として平和の泉、核廃絶を希求し、「核兵器が地球上から姿を消すまで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴です


原爆資料館本館

被爆者の遺品や被爆の惨状を示す写真や資料を展示し、1945年8月6日あの日、立ち上るきのこ雲の下で、何が起こったのかの被爆の実相を伝えます

東館

焦土と化した街地を、核の危険性など核兵器廃絶に向けて、被爆者証言、戦時下から復興への歩み等展示。地球平和監視時計で最後の核実験からの日数等表示

国立原爆死没者追悼

原爆死没者を追悼するとともに、原爆の惨禍を知らせ、その体験を後代に継承するための施設。静かに追悼し平和を考える空間、体験記・証言映像を閲覧視聴



原爆死没者慰霊碑
原爆犠牲者の霊を雨露から守る意味を込めて埴輪の形に似た碑の下には石棺があり、国を問わず名前が判明した犠牲者の原爆死没者名簿が納められております。名簿には名前、死没日時、没年齢が国籍不問で記されている。氏名不詳と記された身元不明者の名簿1冊と遺族の希望による長崎死没者の1冊もあります。毎年8月6日迄にその1年間で新たに亡くなった死没者の名前が書き加えられる。書き加えられる死没者数が毎年数千人なのは、未だ終わりのない原爆犠牲者の苦しみが痛ましく思われます。碑文に、「安らかに眠ったください過ちは繰返しませぬから」が見えます。その意味は、二度と戦争をしない、過去の悲しみ憎しみを乗り越え、真の世界平和を実現しようとする「ヒロシマの心」です。8カ国語に翻訳され世界の人々に訴えます。

原爆死没者慰霊碑

丹下健三が霊を雨露から守るはにわ型に設計。石室には国内外を問わず原爆死没者の名簿が納められています。名簿は今でも毎年新たに書き加えられます。8月6日には慰霊碑の前で平和式典が行なわれます

安らかにお眠り.

碑文に「安らかに眠ってください過ちは繰り返しませぬから」とあります。原爆死没者の霊の冥福を祈る気持ちを誓いの言葉に結びつける碑文。主旨を正確に伝える為ヒロシマの心として8カ国の言葉の説明板設置

ヒロシマの心

碑文はすべての人びとが原爆犠牲者の冥福を祈り戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である過去の悲しみに耐え憎しみを乗り越えて全人類の共存と繁栄を願い真の世界平和の実現を記念するヒロシマの心



原爆の子の像
原爆で亡くなった多くの子どもたちの霊を慰め、世界に平和を呼びかける碑です。像のモチーフの佐々木貞子さんは、爆心地から北へ1.6kmの所で2歳の時に被爆しました。幸いけがもなく元気で活発な少女に成長しました。ところが、10年後の小学校6年生の時に突然白血病と診断され、8か月間の闘病生活の後に短い生涯を終えました。禎子さんは「鶴を千羽折ると病気が治る」と信じ、薬の包み紙や包装紙などで1000羽以上の鶴を折り続けました。病気を乗りこえ、懸命に生きようとした「サダコ」の物語は、ヒロシマの悲劇の象徴として、日本だけでなく海外でも広く語り継がれています。禎子さんの死に衝撃を受けた同級生たちは、「原爆で亡くなったすべての子どもたちのために慰霊碑をつくろう」と全国へ呼びかけました。折り鶴ブースには全国から数多くの折り鶴が捧げられます。

原爆の子の像

原爆で亡くなった多くの子供たちの霊を慰め、世界に平和を呼びかけます。三脚のドーム型の台座の頂上に金色の折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像、左右に少年少女の像。平和な未来と希望を象徴

ぼくらの叫び.

「原爆で亡くなった全ての子供たちのために慰霊碑をつくろう」と呼びかけ世界からも支援を。碑文「これはぼくらのさけびですこれは私たちの祈りです世界に平和をきずくための」とあります

折り鶴台(ブース)

日本の伝統的な文化の折り紙ですが、佐々木貞子さんが病気からの回復を願って折り続けましたが8ヶ月の闘病後なくなりました。以来平和のシンボルとして多く国内外から捧げられています



供養塔
人類初の原子爆弾の威力はすさまじく無防備な被爆地は一瞬のうちに焦土化するとともに、爆心地に近いこの付近には遺体が散乱し、また、川から引き上げられたものなど、無数の遺体が集められ、大きな寺のあったこの場所で、くる日もくる日も荼毘にふされていました。このように臨時の火葬場は、市内のあちらこちらにできました。多くの遺体は、名前も分からず、男女の区別さえつかなかったと言われています。その後、各所に散在していた身元不明の遺体がここに集められました。後に、市民からの寄付により、仮供養塔、仮納骨堂・礼拝堂が建立され、その後広島市が中心となり、老朽化した遺骨堂を改築し、各所に散在していた引き取り手のない遺骨もここに集め納めました。内部には納骨堂があり、一家全滅で身内の見つからない遺骨や氏名の判明しない遺骨約7万柱が納められています。遺族の事情などで供養塔に永久安置してい人の遺骨のほか、氏名が判明しながら引き取り手のない遺骨の八百余の名簿を毎年公開し、全国自治体に名簿を送り、遺族を探しています。

供養塔

爆心地に近い慈仙寺境内は臨時の火葬場となり氏名年齢性別などほとんどわからない痛ましい無数の体が運ばれて火葬。翌年1月に供養会が結成、以降各地に散在する,遺骨を市民の喜捨(キシャ)でバラック建ての納骨堂に収集供養=>

納骨状況

=>1947年頃から次第に復興作業が始まり次々と遺骨が見つかったが、ほとんど身元が確認されず供養塔に納められました。現在の供養塔は1955年に再建。当初は毎年の慰霊祭の関係者ほかは訪れる人が少なかったといわれる

遺族を捜しています

原爆供養塔納骨名簿(遺族を捜しています)氏名が判明しながら引き取り手のない遺骨が八百余名。原爆死没者には遺族に遺骨を引き取られた方、引き取られない方、引き取られようのない名前年齢性別が分からないとても悲しい方が...



韓国原爆死没者慰霊碑
原爆の犠牲者は日本人ばかりではありません。8月6日原爆投下当時、広島市には居住者、軍人、通勤、作業動員され周辺町村から入市した人を含め約35万人いたとされております。日系米国人、ドイツ人、当時日本の植民地から来た朝鮮、台湾、中国大陸、そして米兵捕虜などが、いやおうなく原爆の戦禍に巻き込まれました。日本人の次に多くの朝鮮人の方が犠牲となりました。広島市には約5万人の朝鮮人がいて被爆し、正確ではありませんが約3万人が亡くなったと言われております。日本は朝鮮を植民地としていました。その結果、生活基盤を失った多くの人たちは職を求めて日本に渡らざるを得ませんでした。また、戦争が激しくなると、強制連行や徴用によって、たくさんの朝鮮の人々が連れて来られました。日本名に変えられた「創始改名」により出身の名前がわからない朝鮮人が含まれていました。韓国の慰霊碑は当初は平和公園区域外の本川橋西詰めにありましたが、1999年この場所に移設されました。カメをかたどった台座の上に碑柱が立ち、その上には二匹の竜が彫られた冠が載せられています。「死者の霊はカメの背に乗って天に昇る」という言い伝えにちなんで作られたそうです。カメの頭は犠牲者の祖国、すなわち韓国の方向に向いています。

韓国人原爆犠牲者.

「前略...国のない悲しみを骨の髄まで味わったものがこの太平洋戦争を通してでありその中でも頂点をなしたのが原爆投下の悲劇でした...」

韓国人原爆犠牲者.

碑は当初、朝鮮王家の一族李殿下が原爆被災後にその姿を発見された場所にちかいという「ゆかり」から本川西詰めに建立され=>

韓国人原爆犠牲者.

=>後に、強い要望から平和公園内に移されました。原爆は広く苦しめました。名簿は亀座部分前方の地面の箱の中に納められています



平和の鐘
この梵鐘・鐘堂は、広島の悲願に立って、すべての核兵器と戦争のない、まことの平和共存の世界を達成することをめざし、その精神文化運動のシンボルとして造られました。この鐘の音を広島から世界のすみずみまで、ひびきわたらせ、全人類のひとりひとりの心にしみわたらせることを願っております。鐘の表面には「世界は一つ」を象徴する、国境のない世界地図が浮き彫りにされています。撞座は、原水爆禁止の思いをこめて原子力マークにし、その反対側には、撞く人の己の心を写し出す鏡が入れられています。鐘楼の周囲の池にはハスが植えられ、毎年、8月6日の平和記念日の頃になると美しい花を咲かせます。被爆当時、ハスの葉で傷をおおい、火傷の痛みをしのいだという被爆者の霊を慰めたものだそうです。梵鐘の音は「残したい日本の音百選」に選定されております。

平和の鐘

宇宙を表現したドーム型の屋根が4本の柱に支えられています。核兵器と戦争のないまことの平和共存の世界を達成する運動のシンボル

平和の鐘

国境のない世界地図を鐘に浮彫しています。この鐘の音を世界のすみずみまでひびきわたらせ、全人類の心にしみわたらせるとあります

ハスの花

鐘楼の周囲の池にははスイレンとハス(大賀ハス)が植えられて、スイレンは長い花枝の先に、ハスは水面より上に花が咲くそうです



原爆ドーム
明治期、広島は物産陳列館としてチェコのヤン・レツル設計により1915年開館しました。同館はレンガ及び鉄筋コンクリート造りドーム部は5階相当で、夜間にはライトアップされることもあり、絵葉書になるなど名所となりました。同館は後の1933年に産業奨励館と改称されました。やがて美術博覧会などが開催されるようになり、文学、美術、演劇の愛好家たちが集まるサロンのように市民にも親しまれていました。やがて、戦争が激しくなると官公庁や統制会社の事務所などに使われていました。そして、この建物は爆心地から北西わずか160メートルの至近距離で被爆しました。爆風と熱戦を浴びて大破し、内部は全焼しました。広島の街は見渡す限りの焼け野原となり、この建物のドーム型の屋根が遠くからも際立ってみえました。そのため、ここが目印となり家族を探し求める人たち伝言場所となりました。屋根がドーム型から、いつしか市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになりました。原爆投下時に建物内で勤務していた職員ら約30人は全員即死したと推定されており、前夜宿直に当たっていて帰宅し自宅前で被爆し負傷した1名が唯一の生存者となりました。広島市内が復興される中原爆ドームは原子爆弾の惨禍を示すシンボルとして知られるようになりました。1960年代には風化が進んで崩落の危険が生じるなどの理由から一時は取り壊される可能性が高まっていました。しかし、一歳のときに自宅で被爆し放射性障害が原因とみられる急性白血病のため16歳で亡くなった高校生の楮山ヒロ子さんの保存を願うの日記「あの奨励館が、、、、」に感銘を受け、保存となったともいてれております。1996年原爆ドームは世界遺産に登録されました。二度とあってはならない遺産を負の遺産とも一部でいわれているようです。


産業奨励館

明治時代は西欧式の建築のコピーから始まる。装飾おいてヤン・レツルは当時ヨーロッパで最先端のセセッション式で幾何学的な文様が使われている。また階段室の独立柱などはまた違う文様で、様々な様式が入交じる

被爆者

産業奨励館は戦時下、内務省の土木出張所や地方材木など統制会社の事務所になりました。原爆投下により建物は一瞬にして大破、天井から火をふいて全焼し中にいた30人余の人々は全員死亡したと伝えられております

原爆ドーム

爆心地から僅か200mの至近距離ににあって建物は今の姿に残りました。熱線で天井が溶解、木部全焼。爆風が直上から吹き付けた為全ての窓は吹き飛んだ。こうして鉄製の骨組みと階段室、外壁を残すのみの姿に



動員学徒慰霊塔

日本がハワイ真珠湾を攻撃に始まった太平洋戦争は終戦まで3年8ヶ月になりました。戦争の終わり頃、政府は労働力を補うため13歳の男女の生徒学生は建物疎開作業などに、14歳から17歳の生徒学生は軍需工場に動員されていました。これらを「学徒動員」と言います。被爆当日、市内では建物疎開で作業と呼ばれる、家を壊して防火帯を作る作業を行っていた生徒が、8400人のうち約6300人が原爆の犠牲となりました。全国で動員された学生は約340万人で、1万人余りが戦争の犠牲となりました。その犠牲者の霊を慰めるために遺族や友人らが中心となって1967年、この塔を立てました。また、本土への空爆が激しくなると、子どもの安全のため、また避難する際の足手まといにならないようにするため、都市部の子どもたちは田舎に疎開することになりました。広島市内でも小学校3年生から6年生の8500人が県内の田舎の寺や国民学校の職員寮などに集団疎開させられました。小さい子どもたちは広島市内の親元に残っていました。終戦を迎え、疎開した子供たちの中には原爆で家族を失い帰る家もなく、「原爆孤児」となった子どもたちがたくさんおりました。


動員学徒慰霊

平和の女神像と8羽のハトを配した高さ12mの5層の塔の中心柱に慰霊の燈明がついています。第二次世界大戦中労働力を補うた動員され戦禍に倒れた学生と原爆の犠牲者を含めた約1万人の学徒霊を慰めます

動員学徒作業

左右にある4枚のレリーフには戦時下駆り出されて「食料増産作業」「女子生徒の縫製作業」「工場の製造作業」を行なう生徒が窺えます。このほか建物疎開作業で8400人の内6300が原爆の犠牲となりました

学徒出陣

全国の戦没学徒の334校にのぼる出身校名が刻まれております。そして「動員学徒悼歌」が刻まれています。「君知るや学徒百万祖国こそ生くる命とうち捨てぬペンもノートも」迫りくる祖国の危機にのまれて



峠三吉の碑
この碑はの敗戦後の占領軍の弾圧に屈せず、最期まで非核活動を続けた峠三吉の勇気と平和への熱意をたたえるとともに、彼の遺志を継ぎ、核兵器廃絶の決意を新たにさせるものです。峠三吉は28歳の時、爆心地から3km離れた翠町の自宅で被爆しました。戦後、青年運動・文化運動を通じ次第に平和運動の先頭に立つようになり、原爆反対、平和擁護の作品を数多く発表しました。肺葉切除手術中に死亡36歳でした。朝鮮戦争が始まり、占領軍による原爆反対運動への弾圧が激しさを増す中、トルーマン大統領の朝鮮戦争に原爆使用もありうるという声明に触発さ れ、『原爆詩集』をまとめる決意をしました。この作品は、19512年ベルリンの全世界青年学生平和祭に、日本の代表作品の一つとして送られ、世界的な反響を与えました。 碑文はこの詩集の序として書かれたものです。「ちちをかえせ、、、」

峠三吉

碑は、占領軍の広島への原爆投下に関する情報統制の弾圧にも屈しないで、最期まで活動を続けた峠三吉の勇気と平和への熱意をたたえるとともに、彼の遺志を継ぎ核兵器廃絶の決意を新たにする

原爆詩集「序」

「ちちをかえせ、ははをかえせ、としよりをかえせ、こどもをかえせ、わたしをかえせ、わたしにつながるにんげんをかえせ、にんげんのにんげんのよのあるかぎりくずれぬへいわをへいわをかえせ」

詩の英訳

give back father,give back mother,,,



国立広島原爆死没者追悼平和記念館
国立広島原爆死没者追悼平和記念館は、国として、原爆死没者の尊い犠牲を明記し追悼の意を表すとともに、永遠の平和を記念するため、2002年8月に開館しました。併せて、原爆の惨禍を全世界の人々に知らせ、その体験を後代に継承するための施設です。

8時15分【地上】

地上には、原爆投下時刻「8時15分」を示すモニュメント、周囲には水を求めて亡くなられた方々を弔うための噴水とともに建設工事中に出土した被爆瓦等を配しています

追悼空間【B2階】

地下2階には、平和祈念・死没者追悼空間があり、原爆死没者を静かに追悼し平和について考える場所です。壁面には爆心地から見た被爆後の廃墟と化した街並みが窺えます

情報展示【B1階】

原爆死企画展を開催し、テーマに沿って被爆体験記を紹介。また、その体験記と関係の深い遺品などの展示も行なっています。被爆者の実相を伝えるために写真や映像を閲覧視聴


彫刻家による銅像


彫刻家による銅像

平和記念公園には碑文とともに、彫刻家による銅像が数多くあります。主な彫刻家と作品をご紹介します。いずれも広島平和記念の主旨に沿った作品であり、傍のある碑の一文とともにご覧ください。

①③④⑤園鍔勝三:広島県尾道市出身、公園の他市内にはたくさんの作品がります
 「平和の像『若葉』(湯川秀樹歌碑)」、「平和記念ポスト」、「平和祈念像」
 「平和の女神(動員学徒慰霊塔)」、「夢に乗る(赤い鳥文学碑)」
②横江嘉純:富山県出身、公園の他「愛の像(東京駅)」など、「祈りの像」
⑥芥川永:広島県西条市出身、「国民学校教師と子供の碑」

①平和記念像

「親から子供へ、きのよりもあすへ、三日月もやがて満月へ、新しい未来を求めて、平和のラッパを吹きならせ」詩碑:草野心平「平和記念像によせて」

②祈りの像

若い夫婦が子供を抱いて立つ。幾多の困難に際して国に殉じた犠牲者の慰霊と平和への祈りを込めて建てられた。詩碑:大木規夫「平和を祈り御霊を鎮めん」

③赤い鳥文学碑

右側の少年と少女はの台座には鈴木三重吉の筆で「私は永久に夢を持つ。ただ年少の時のごとく、ために悩むこと浅きのみ」と碑文があります


④平和記念ポスト

東館の南側に郵便ポストがあります。1952年広島であった「郵便友の会全国大会」にあわせて設置されました。他と同じように手紙など集荷されます。

⑤平和の像「若葉」

銘文:湯川秀樹「まがつび(災いを起こす神)よ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは」核兵器と戦争の廃絶を訴え続けました

⑥国民学校教師と子

銘文:正田篠枝「太き骨は先生ならむ そのそばに ちいさきあたまの骨 あつまれり」教師200人、子供2000人が犠牲とと推定されています


広島平和記念公園及び周辺の主な行事


広島平和記念公園及び周辺の主な行事

「広島平和記念公園」は、毎年8月6日に広島市主催の「平和記念式典」が行なわれるほか、その南に隣接し東西をを走る「平和大通り(100m道路)」では、市内中心部であることから、様々な催しが行なわれる。

①②平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和記念式)
 原爆死没者慰霊碑前
 毎年8月6日8時15分~
③灯篭流し
 元安川
 毎年8月6日18時~
④全国都道府県対抗男子駅伝
 広島平和記念公園発着
 毎年1月第三日曜日
⑤フラワーフェスティバル(FF)
 平和大通り
 5月連休
⑥ドリーミネーション
 平和大通り
 毎年11月末~り


①平和祈念式典

毎年8月6日に平和記念式典が行なわれます

②平和祈念式典

平和式典では平和宣言が読み上げられます

③灯篭流し

毎年8月6日夕方から元安川で原爆で亡くなられた方の霊を慰めるために灯ろう流しが行なわれます


④全国男子駅伝

毎年1月に全国男子駅伝が行なわれ、全国都道府県の中学生から社会人の代表が駅伝で競います

⑤FF

毎年5月のゴールデンウイークに平和大道りでパレードが行なわれます

⑥ドリミネーション

12月になると、毎年平和大通りの緑地帯に色とりどりのイルミネーションが輝きます


ご参考「広島平和記念公園」関連URL


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