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〒730-0036 広島県広島市中区袋町6-36(BOX45)
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年中、国以外から多くの観光客が訪れ、原子爆弾による死没者に哀悼を捧げ、碑に刻まれた「ひろしまの心」を知る
毎年、全国の小・中・高校生の旅行生が訪れ、原爆の実相を目にし、命の大切さを学び、平和への思いを繋げます
年中24時間開放されてされており、毎朝のラジオ体操に、散歩に、春には大勢の花見客が、川辺で一人物思いに耽る

春はサクラ
夏はキョウチクトウ平和記念公園の西側を流れる本川(ほんかわ)両岸を、夾竹桃(キョウチクトウ)が紅や白色に彩っています。8月6日の平和記念日(原爆の日)の頃に、花は盛りを迎えます。原爆が投下された後、「75年間は草木も生えない」と言われた焦土に、夾竹桃はいち早く咲きました。夾竹桃は、希望と勇気を与えてくれた花ですが、悲しい記憶を呼び起こす花でもあります。辛く、苦しい記憶ですが、同じ過ちを二度と繰り返さないために、心に刻みつけなければならない記憶です。公園の上空600メートルで原子爆弾が炸裂した、あの日は焼けつくような暑い日だったといいます。広島市民の投票で「広島市の花」に選ばれています。毎年欠かさず花をつける姿は、今でも被爆者に悲しい記憶と同時に、困難に遭ってもなお力強く生き続ける勇気を与ております。

原爆の慰霊、原爆の実相、平和を記念するとともに、観光地として24時間開放されている都市型公園です
被爆者の遺品や被爆の惨状を示す写真や資料を展示、被爆後のあゆみや、核時代の現状を紹介しています
右手に乳飲み子を抱え、左手で用事を背負うとしながら、前かがみ姿勢で、嵐の中を生き抜こうとする母
原爆が投下される前の「中島地区」
被爆前の平和記念公園は、中島地区と呼ばれ、幕末から明治大正にかけて広島市の中心的繁華街としてにぎわった歴史のある街でした
産業奨励館への貨物の出し入れで、元安川は舟運での物流輸の要所でした。また、夏には子供たちの水遊びでまた、にぎわっていました
市内電車は市民の足
原爆の投下
1個の原子爆弾により一瞬のうちに中島地区は焦土化しました。
産業奨励館は原爆ドームと化しました
乗客は死亡しへ爆電車と化しました
原爆死没者と被爆者
死没者は
被爆者は
被爆者は
被爆「中島地区」から広島平和記念公園へ
復興1
復興2
復興3
従来「壱之御茶屋
円亭。榻は
茅葺で、古くは納涼
ここから見える
ここから見る秋の夕
洗心橋、観
丹下健三が設計した平和公園の碑の配置は公園の南の平和大道りから資料館本館、慰霊碑、原爆ドームが一直線に並びます。慰霊碑のアーチ内の向こうに原爆ドームが見えます
原爆資料館は平和の軸線を塞がないように1階が吹き抜けになっています。このように建物を1階部分の柱だけで支えている建造物をピロティといいフランスのコルビジェの発想
被爆者が「水を水を」と叫び亡くなったことへの鎮魂の水として平和の泉、核廃絶を希求し、「核兵器が地球上から姿を消すまで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴です
被爆者の遺品や被爆の惨状を示す写真や資料を展示し、1945年8月6日あの日、立ち上るきのこ雲の下で、何が起こったのかの被爆の実相を伝えます
焦土と化した街地を、核の危険性など核兵器廃絶に向けて、被爆者証言、戦時下から復興への歩み等展示。地球平和監視時計で最後の核実験からの日数等表示
原爆死没者を追悼するとともに、原爆の惨禍を知らせ、その体験を後代に継承するための施設。静かに追悼し平和を考える空間、体験記・証言映像を閲覧視聴
原爆死没者慰霊碑
丹下健三が霊を雨露から守るはにわ型に設計。石室には国内外を問わず原爆死没者の名簿が納められています。名簿は今でも毎年新たに書き加えられます。8月6日には慰霊碑の前で平和式典が行なわれます
碑文に「安らかに眠ってください過ちは繰り返しませぬから」とあります。原爆死没者の霊の冥福を祈る気持ちを誓いの言葉に結びつける碑文。主旨を正確に伝える為ヒロシマの心として8カ国の言葉の説明板設置
碑文はすべての人びとが原爆犠牲者の冥福を祈り戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である過去の悲しみに耐え憎しみを乗り越えて全人類の共存と繁栄を願い真の世界平和の実現を記念するヒロシマの心
原爆の子の像
原爆で亡くなった多くの子供たちの霊を慰め、世界に平和を呼びかけます。三脚のドーム型の台座の頂上に金色の折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像、左右に少年少女の像。平和な未来と希望を象徴
「原爆で亡くなった全ての子供たちのために慰霊碑をつくろう」と呼びかけ世界からも支援を。碑文「これはぼくらのさけびですこれは私たちの祈りです世界に平和をきずくための」とあります
日本の伝統的な文化の折り紙ですが、佐々木貞子さんが病気からの回復を願って折り続けましたが8ヶ月の闘病後なくなりました。以来平和のシンボルとして多く国内外から捧げられています
供養塔
爆心地に近い慈仙寺境内は臨時の火葬場となり氏名年齢性別などほとんどわからない痛ましい無数の体が運ばれて火葬。翌年1月に供養会が結成、以降各地に散在する,遺骨を市民の喜捨(キシャ)でバラック建ての納骨堂に収集供養=>
=>1947年頃から次第に復興作業が始まり次々と遺骨が見つかったが、ほとんど身元が確認されず供養塔に納められました。現在の供養塔は1955年に再建。当初は毎年の慰霊祭の関係者ほかは訪れる人が少なかったといわれる
原爆供養塔納骨名簿(遺族を捜しています)氏名が判明しながら引き取り手のない遺骨が八百余名。原爆死没者には遺族に遺骨を引き取られた方、引き取られない方、引き取られようのない名前年齢性別が分からないとても悲しい方が...
韓国原爆死没者慰霊碑
「前略...国のない悲しみを骨の髄まで味わったものがこの太平洋戦争を通してでありその中でも頂点をなしたのが原爆投下の悲劇でした...」
碑は当初、朝鮮王家の一族李殿下が原爆被災後にその姿を発見された場所にちかいという「ゆかり」から本川西詰めに建立され=>
=>後に、強い要望から平和公園内に移されました。原爆は広く苦しめました。名簿は亀座部分前方の地面の箱の中に納められています
平和の鐘
宇宙を表現したドーム型の屋根が4本の柱に支えられています。核兵器と戦争のないまことの平和共存の世界を達成する運動のシンボル
国境のない世界地図を鐘に浮彫しています。この鐘の音を世界のすみずみまでひびきわたらせ、全人類の心にしみわたらせるとあります
鐘楼の周囲の池にははスイレンとハス(大賀ハス)が植えられて、スイレンは長い花枝の先に、ハスは水面より上に花が咲くそうです
原爆ドーム
明治時代は西欧式の建築のコピーから始まる。装飾おいてヤン・レツルは当時ヨーロッパで最先端のセセッション式で幾何学的な文様が使われている。また階段室の独立柱などはまた違う文様で、様々な様式が入交じる
産業奨励館は戦時下、内務省の土木出張所や地方材木など統制会社の事務所になりました。原爆投下により建物は一瞬にして大破、天井から火をふいて全焼し中にいた30人余の人々は全員死亡したと伝えられております
爆心地から僅か200mの至近距離ににあって建物は今の姿に残りました。熱線で天井が溶解、木部全焼。爆風が直上から吹き付けた為全ての窓は吹き飛んだ。こうして鉄製の骨組みと階段室、外壁を残すのみの姿に
動員学徒慰霊塔
平和の女神像と8羽のハトを配した高さ12mの5層の塔の中心柱に慰霊の燈明がついています。第二次世界大戦中労働力を補うた動員され戦禍に倒れた学生と原爆の犠牲者を含めた約1万人の学徒霊を慰めます
左右にある4枚のレリーフには戦時下駆り出されて「食料増産作業」「女子生徒の縫製作業」「工場の製造作業」を行なう生徒が窺えます。このほか建物疎開作業で8400人の内6300が原爆の犠牲となりました
全国の戦没学徒の334校にのぼる出身校名が刻まれております。そして「動員学徒悼歌」が刻まれています。「君知るや学徒百万祖国こそ生くる命とうち捨てぬペンもノートも」迫りくる祖国の危機にのまれて
峠三吉の碑
碑は、占領軍の広島への原爆投下に関する情報統制の弾圧にも屈しないで、最期まで活動を続けた峠三吉の勇気と平和への熱意をたたえるとともに、彼の遺志を継ぎ核兵器廃絶の決意を新たにする
「ちちをかえせ、ははをかえせ、としよりをかえせ、こどもをかえせ、わたしをかえせ、わたしにつながるにんげんをかえせ、にんげんのにんげんのよのあるかぎりくずれぬへいわをへいわをかえせ」
give back father,give back mother,,,
国立広島原爆死没者追悼平和記念館
地上には、原爆投下時刻「8時15分」を示すモニュメント、周囲には水を求めて亡くなられた方々を弔うための噴水とともに建設工事中に出土した被爆瓦等を配しています
地下2階には、平和祈念・死没者追悼空間があり、原爆死没者を静かに追悼し平和について考える場所です。壁面には爆心地から見た被爆後の廃墟と化した街並みが窺えます
原爆死企画展を開催し、テーマに沿って被爆体験記を紹介。また、その体験記と関係の深い遺品などの展示も行なっています。被爆者の実相を伝えるために写真や映像を閲覧視聴
「親から子供へ、きのよりもあすへ、三日月もやがて満月へ、新しい未来を求めて、平和のラッパを吹きならせ」詩碑:草野心平「平和記念像によせて」
若い夫婦が子供を抱いて立つ。幾多の困難に際して国に殉じた犠牲者の慰霊と平和への祈りを込めて建てられた。詩碑:大木規夫「平和を祈り御霊を鎮めん」
右側の少年と少女はの台座には鈴木三重吉の筆で「私は永久に夢を持つ。ただ年少の時のごとく、ために悩むこと浅きのみ」と碑文があります
東館の南側に郵便ポストがあります。1952年広島であった「郵便友の会全国大会」にあわせて設置されました。他と同じように手紙など集荷されます。
銘文:湯川秀樹「まがつび(災いを起こす神)よ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは」核兵器と戦争の廃絶を訴え続けました
銘文:正田篠枝「太き骨は先生ならむ そのそばに ちいさきあたまの骨 あつまれり」教師200人、子供2000人が犠牲とと推定されています
毎年8月6日に平和記念式典が行なわれます
平和式典では平和宣言が読み上げられます
毎年8月6日夕方から元安川で原爆で亡くなられた方の霊を慰めるために灯ろう流しが行なわれます
毎年1月に全国男子駅伝が行なわれ、全国都道府県の中学生から社会人の代表が駅伝で競います
毎年5月のゴールデンウイークに平和大道りでパレードが行なわれます
12月になると、毎年平和大通りの緑地帯に色とりどりのイルミネーションが輝きます
平和記念公園について=>平和記念公園について - 広島市の公園・緑地|広島市公式ホームページ|国際平和文化都市
広島平和記念資料館=>広島平和記念資料館
広島平和記念公園=>平和記念公園 | 【公式】広島の観光・旅行情報サイト Dive! Hiroshima